
☆取手市近隣高校親善野球大会観戦記 〜取手二高VS江戸川学園取手〜
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鶴丸 深志’
2026年11月01日 10:00 visibility37
日本の道路の起点である日本橋から国道6号を北上してゆくと、約35km付近に全長約1.2kmの大利根橋が見えて来る。大利根橋は、川の長さが約322kmで日本2位、流域面積が約16,840km²で日本一広い利根川に架かる橋である。
千葉県我孫子市から大利根橋を渡ると、茨城県取手市に入る。
取手市といえば、千葉県我孫子市に囲まれた珍しい飛び地があることで全国的に有名である。名門・麻布中学の社会科の入試で出題されたこともある。この飛び地は、大正時代に行われた利根川の直線化改修工事によって、川の南側に切り離されて誕生した。
それと、茨城県勢初の全国制覇を成し遂げた取手二高と、泣く子も黙る茨城県内屈指の進学校・江戸川学園取手が思い浮かぶ。
1980年(昭和55年)の第62回全国高校野球選手権大会は「大ちゃんフィーバー」が巻き起こった大会であった。また、都立勢として進学校の国立高校が初めて出場し話題を集めた。この大会に茨城代表として江戸川学園取手が初出場した。
第62回全国高校野球選手権茨城大会の準決勝には、1905年野球部創部の水戸商業、1902年野球部創部の下妻一高、1900年野球部創部の太田一高の伝統校3校と、創立・創部3年目の江戸川学園取手が進出した。茨城の高校野球ファンは甲子園から20年遠ざかっていた水戸商業の甲子園復活に期待をしていた。
しかし、水戸商業は好投手サブマリン斎藤学を擁する下妻一高に 0 - 2 の完封負け、下妻一高はノーシードからの決勝進出となった。
江戸川学園取手も、双子の投手を擁する太田一高に 2 - 0 の完封で決勝に進出した。
迎えた決勝戦、下妻一高の斎藤学が崩れ、9 - 0 と予想外の大差で江戸川学園取手が甲子園初出場を決めた。
江戸川学園取手は開校と同時に、東京、静岡、千葉、愛知などから優秀な選手を100人スカウトして部員120人の大所帯を築き、そこから選び抜かれたベンチ入りメンバー17人のうち16人が県外出身者という構成で甲子園出場を果たした。
江戸川学園取手の甲子園出場に対し、当時のいはらき新聞『白球の詩』のコーナーに「外人部隊で構成される江戸川学園はその在り方をめぐって本県高校野球界に一石を投じている」という記事が掲載された。当時はまだメンバーを県外出身者で固めることが珍しく、県外出身者が茨城の代表として甲子園に出場することに高校野球関係者のみならずファンからも反発や疑問が噴出した。
甲子園出場後は進学へ大きく舵を切り、7期生に初の東大合格者を輩出すると飛躍的に学力を伸ばし続け、現在は東大、早慶上理、医学部医学科に多くの合格者を輩出する有名進学校へと変貌を遂げ、県内外から認知されている。新興私立高校の成功モデルのひとつといっていいだろう。
全校生徒の約半数が名門大学を目指し、広大な利根川を渡り通学している。
1984年(昭59年)の第66回全国高校野球選手権大会は「KKコンビ擁するPLを倒すチームは現れるか?」に注目が集まった。この大会に茨城代表として取手二高が出場した。
取手二は初戦でいきなり強豪の箕島と対戦。試合は箕島のエース嶋田が7回表まで取手二を無得点に抑え 2 - 0 とリード。その裏、箕島に待望の追加点が入り、勝負あったかに見えた。
しかし迎えた8回表、取手二は無死2塁のチャンス。打順が8、9番と下がるので、バントで送る作戦も考えられたが、木内監督は8番の塙に強攻を命じた。これが的中、タイムリースリーベースとなり、流れは一気に取手二に傾き、その後も猛攻が続きあっとう間に5点を奪って逆転勝利。
勢いに乗った取手二は、その後も福岡大大濠を 8 - 1、鹿児島商工を 7 - 5、鎮西を 18 - 6 で破り、初の決勝に進出した。
決勝は夏連覇を狙うPL学園との対戦となった。
取手二が 4 - 1 と3点リードで迎えた8回裏、PLは清原からの打順。取手二のエース石田は3点差の余裕からか、超スローボールを投げ観衆がどよめく。しかし、清原は二度目のスローボールをレフト前に弾き返す。続く桑田は倒れ1死1塁となったが、6番北口の打球は左中間のフェンスを直撃、打球が転々とする間に清原がホームイン。打った北口は3塁に止まったが、中継に入ったショート吉田が投げなくてもいいホームに大暴投。打たれたショックからか、石田がバックアップに入っておらず、PLに2点が入り、スコアは 4 - 3 となり試合はわからなくなった。
そして、1点差のまま9回裏のPLの攻撃を迎えた。先頭バッターは、この日トップに起用された清水哲。清水哲は2球目のストレートを強振。打球はレフトスタンドへ吸い込まれ、遂に逆転のPLが追い付いた。
完全に我を失った石田は、続く松本の初球にデッドボール。取手二ナインは動揺していた。しかし、ただ1人冷静だったのが、ベンチの木内監督であった。すくっと立ち上がり、左打者の鈴木にワンポイントでライトを守っていた左変則派の柏葉を起用した。これには誰もが意表をつかれた。鈴木はバント、ボールはキャッチャー前に転がる。キャッチャーの中島は思い切って2塁へ投げた。そして、これがアウトとなる。続く打者が清原、桑田だっただけに、このプレーは大きかったといえよう。
1死1塁となって、また木内監督は動いた。ライトへ回した石田を再びマウンドに送った。これを意気に感じた石田は、清原を内角のボール球で三振に取った。さらに桑田をサードゴロに仕留めた。
これで流れは変わった。延長10回表の攻撃は当たっている2番の佐々木から。佐々木はストレートをセンター前に運ぶ。続く下田が送り、続く桑原はフォアボールで歩いて、1死1、2塁のチャンスを迎えた。ここでバッターは、先程好プレーを見せた中島。中島は高めのボール球を大根切り。打球はレフトスタンドに飛び込み、取手二が勝負を決めた。
優勝旗が春夏通じて初めて、広大な利根川を渡り茨城に届いた。
この両校の試合が観たくなり、取手市近隣高校親善野球大会が行われるFUYOUアリーナ藤代野球場に向け、愛車のレクサスLBX“Elegant”を走らせた。
茨城県立取手第二高校は茨城県取手市東に所在し、1922年(大正11年)に茨城県北相馬郡北総実修学校女子部として創立された。
野球部は1950年(昭和25年)に創部され、ユニフォームはスカイブルー、胸には「取手二高」のマークである。
夏の全国大会予選には、1951年(昭和26年)の第33回大会予選(北関東大会)に初参加し、対戦相手は竜ヶ崎一に決まっていたが、棄権試合となった。
夏の全国大会予選初勝利は、1952年(昭和27年)の第34回大会予選(北関東大会)で、古河一に 10 - 9 で勝利した。
夏の予選通算成績は112勝71敗1分、優勝4回、準優勝3回である。
江戸川学園取手高校は茨城県取手市西に所在し、1978年(昭和53年)に創立された。
野球部も開校と同じ1978年(昭和53年)に創部され、ユニフォームは白地、胸には紫の筆記体で「Edogawa」のマークである。
夏の全国大会予選には、1978年(昭和53年)の第60回大会予選(茨城大会)に初参加し、茨城東に 10 - 0 で勝利し、予選初参加で初勝利を挙げた。
夏の予選通算成績は57勝47敗、優勝1回である。
試合の方は、江戸川学園取手が秋季県大会ベスト8の実力を発揮し初回から攻撃の手を緩めず、7 - 0(7回コールド)で勝利した。
取手二高はこの日2試合目であったため、疲れがあったかも知れない。
両校の活躍に期待したい。
以上です。
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- 事務局に通報しました。

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